本文までスキップする

Staff tweets
スタッフのつぶやき

    わが社の歴史⑭~豊田産業株式会社へ

    日中戦争(昭和12年~)などの戦争の拡大、欧州での戦局の拡大により国内でも生活必需品の統制が始まりました。

    業界においても繊維製品の製造制限令によって価格や生産が統制されるようになりました。

    会社の組織としては、内地部・輸出部・毛糸部・糸部・テグス部などに分かれていたようです。為替の不安から輸出もだんだんとできなくなってきました。

    この写真はこれ以前のものかもしれませんが、糸のサンプル帳です。

     

    昭和17年には繊維製品配給消費統制規則が施行されました。国内向け毛織物においては毛織物中央配給統制株式会社の第49取扱い代行商として業務を行いました。

    貿易業者の整備も行われ、実績のある359社に統合されました。当社は輸出適格者の指定を受け、第三国輸出貿易は仏印(フランス領インドシナ)向け毛織物輸出代行商社となりました。

    毛糸部は廃止され、絹織物は譲渡、絹縫い糸は豊田絹縫糸有限会社に譲渡されました。

    昭和18年になると国は貿易についても統制を強め、交易営団という政府代行機関を設立しました。

    この機関が物資の輸出入価格を決めたり、物資の集荷や配給を行うことになりました。自由に貿易ができなくなった大部分の会社は、政府の命令で中国や満州や東南アジアで活動するしかなかったのです。

    そんな中、社名を豊田産業株式会社と改めました。

    傍系会社、関係会社が10数社あったといわれています。豊田洋行、豊田絹縫糸有限会社、豊田化工絹糸株式会社、豊田兵器工業株式会社、柏原制帽株式会社、盛充工業株式会社、小関毛織株式会社、和歌山絹糸工業所の名前が営業報告書などには見ることができます。

    どのようなものを扱っていたのか、どのような商売をしていたのかなどは資料も少なくわかりません。

    12月に毛麻糸布組合では8社の適格者と5社の中核者に限定されましたが、当社は適格者として登録されました。

    昭和19年(1944年)3月に当社は交易営団より満州、北支、中南支向指定交易受託者となりました。

    また内需においては3月に、毛織物配給統制会社が日本織物統制会社に統合され。代行業者の整理も行われましたが幸いにも当社は代行業者となることができました。

    一方絹糸や人絹関係は実績が少なく伊藤萬を中核とする大阪絹人絹輸出株式会社に統合され、ここに創業以来の糸部の営業は終わることとなりました。