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スタッフのつぶやき

    わが社の歴史⑦  絨部の発展~合名会社豊田商店へ

    四代目豊田善右衛門の女婿で、京都の六條家から婿にはいった隆吉は人格と英才を見込まれていました。商売は全く経験がないながら非常に努力をされたそうです。

    この隆吉を支えたのが瀬口寅造氏です。氏は明治10年(1877年)1月5日大阪府下中河内郡久宝寺村大字久宝寺に瀬口清吉氏の長男として生まれました。幼少より親孝行者で、香気を放っていました。「寅造さんは只の子供ではない」と近隣の人々から推奨され将来を嘱望され、商売を志し、上阪、草鞋を解いたのが豊田商店の糸部でした。時は明治23年(1890年)2月、寅造氏が14歳のころでした。当時は四代目善右衛門が商売を拡張していた時代です。

    同年5月に絨部に転属したのが羅紗界への第一歩でした。若い主人を助け、表裏なく働きついに抜擢されて他を統御する地位に立ったのが若干18歳の時、明治27年(1894年)のことです。

    寅造氏の信望は内外で高まり、明治34年(1901年)絨部の主任に昇進後は経営の更新を期し、「時代は羅紗販売が一番有望だ。羅紗販売に主力を注がなければならない」と主人に進言し、兼業であった洋服部を廃し、また神戸の外国商館などから仕入れていた羅紗類を直接外国の本場から輸入することにしました。

    ここにおいて問屋営業となり豊田商店絨部の基礎を確立したとされます。9月に合名会社組織として業界の指導的立場を確立しました。

    瀬口寅造氏は会社の発展だけではなく、日本の羅紗業界の発展にも貢献しました。羅紗協会の設立に尽力し、関西羅紗協会の会長に就くなど名誉ある職を歴任し、昭和4年大阪府知事から表彰され、また大阪商工会議所の議員にもなりました。

    参考文献:

    羅紗新聞*復興の大旆

    羅紗とは毛織物の一種。軍服や帽子などに使われていた。