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    わが社の歴史⑤ 明治の初め 四代目豊田善右衛門① 羅紗の取扱い始める

    今回は中興の祖と言われた3代目豊田善右衛門の後を継いだ上野又吉のストーリーです。

    丹波篠山の生糸商西垣屋の上野保兵衛の次男の又吉は(長男理一は朝日新聞の中興の祖の一人上野理一)、嘉永3年(1850年)に生まれました。

    実家西垣屋が明治2年(1869年)の暴動によって焼き討ちにあい没落。

    しかし西垣屋の手代の奮闘もあり取引のあった大阪の三井糸店に中年手代として入店することができました。明治4年(1871年)のことでした。入店時には三代目豊田善右衛門の三女包子(かねこ)に配せられることが決まっていたそうです。

    翌年、善右衛門の長男の寅之助が夭逝し、包子の兄で次男の文三郎が家を継ぐことを辞し、又吉の商才と人となりが豊田家を継ぐに適切であると父三代目善右衛門に説いたとあります。

    包子との婚姻は包子が16歳になった明治8年(1875年)のことでした。

    又吉は期待通り、先代から受け継いだ家業を忠実に守ったばかりではありません。

    明治12年ごろになると西洋文化が流入し衣料文化も大きく変換したことで、洋服の普及をいち早く予測して、そのころ官の仕事を大きく担っていた大倉組といっしょに羅紗の輸入をはかりました。

    明治18年には大倉組より毛織物の輸入権を買収して次第に商売を拡大しました。(大倉組は政府各省への物品を納入するために大倉組商会を設立。明治16年のロンドン支店の取扱品の金額は毛織物が圧倒的な比重でした)

    絨店を併設し羅紗の取引を開始。後には羅紗店を独立させました。また礼服の仕立てを行う洋服部もあったといいます。

    明治期における近代化と対外戦争により、軍隊、警察などの制服の需要が増え、大阪谷町一帯の谷町の業者が請け負ったといわれています。

    「東区史」には日清戦争までのラシャ取扱業者の店舗として高麗橋1丁目の豊田善右衛門店の名前がみられます。これは上野又吉改め四代目の豊田善右衛門です。

    参考文献 「東区史」「上野理一伝」