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社長コラム

    社長ブログ 人生のキッカケ パート②

    人生のキッカケ パート②

     

    皆さんこんにちは。豊田周平です。私は今現在ビル屋をしていますが、20年間サラリーマンとして研究開発をしてきました。今回は、サラリーマン時代のキッカケについてご紹介させて下さい。

     

    日本ガイシに入社したキッカケ

     

    大学を卒業後、同級生はほとんどが家電、電機メーカーで半導体の研究開発ができる就職先を選んでいましたが、私はセラミックや材料系の研究開発をしたいと考えていました。

    当時はファインセラミックスブームで夢のセラミックエンジンなどと話題になっていて、興味があり、セラミックスをやっている会社を中心に合計8社くらい会社訪問して、ちょうど規模的に自由にやれそうな日本ガイシに決めました。(同期の技術系新入社員40数人)

    しかし、入社して当時話題にいわゆる構造用セラミックスの研究開発ができるのかと思っていたら、物理系=電子系ってことで、エレクトロニクス関係の研究開発に配属されました。

    当時は、希望通りにならずガッカリしましたが、結果的にそれが良かった。ファインセラミックブームはセラミックスの硬さ、耐熱性等を活かしたいわゆる構造用セラミックスの分野で当時は開発費もふんだんに投入されてましたが、すぐにそのブームは終わってしまっていました。

     

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    アメリカ赴任のキッカケ

     

    1993年に一度目のアメリカに赴任し、R&D Managerとして3年間シリコンバレーで仕事をしました。アメリカに行くキッカケは池袋の展示会で天野雅晴さんと出会った事でした。

    この時天野さんはシリコンバレーのCrystal Technology, Inc.(Palo Alto, CA)の日本でのちゃんとした代理店を探しておられました。Crystal Technologyは当時研究開発していた酸化物単結晶分野のパイオニアで、研究者にとっては神さまみたいなところでした。元々アメリカで仕事をしたいと言う思いもあり、これはチャンスと会社に同社との共同研究を提案し、93〜95年に実現できました。

    元々物理屋の聖地シリコンバレー(当時まだシリコンバレーって言葉は一般的ではありませんでした)に行きたいって願望をずっと持っていたので、当時は夢のような環境で働ける機会ももらえて素直に嬉しかったです。

    私のアメリカ赴任はいわゆる海外駐在とは違い、現地企業との共同研究のリーダーとして部下二人を連れての赴任でしたので、現地のスタッフも部下として研究開発を進めました。この間にStanford大の研究者など多くの現地の関係者と仲良くなることができました。また、学会や展示会等に日本から来られる多くの関係者とも懇意にさせていただく機会を得ることもできました。先日、20数年ぶりにお会いした大学の先生が、私が日本食レストランと飲み屋にお連れしたことをはっきりと覚えておられて感激しました。

    その後、日本に戻りましたが、5年後に再度米国で出資したスタートアップの会社Optobahn Corp.(Torrance CA)のCTOとしてLAに赴任しました。

    この赴任の途中にITバブルがはじけて急遽帰任して敗戦処理を一年、そして違う事業本部のインドネシアの工場赴任を言い渡され、それをキッカケに退職を決断しました。退職決断の理由は事業領域が違うので今までの社外のお付き合いが全くなくなる、稼ぎ頭の事業本部なのでいわゆるコースに乗る話ですが、技術的にも営業的にも最初からその仕事をしていた方たちには勝てないかもってことでした。ちょうど45歳の時です。

    現在はビル屋として働いていますが、今では光エレクトロニクスやレーザーの世界また声を掛けてもらうなど、当時の働きが今のご縁に繋がっているので本当にありがたい事だと思います。

     

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